歴史ドラマや従来の通説では「日野富子の強欲が国を滅ぼした」「東軍か西軍のどちらかが勝利した」と描かれがちですが、近年の歴史学研究(一次史料『大乗院寺社雑事記』などの精査)によって実態の見直しが進んでいます。
誤解1:日野富子は日本三大悪女の黒幕だったのか?
富子は「戦乱の最中に米相場や高利貸しで私腹を肥やした守銭奴」と酷評されることが少なくありませんでした。しかし、近年の公文書研究では、幕府財政が破綻状態にある中で朝廷の儀式費用を工面し、戦乱調停のために粘り強く講和工作を行っていた政治的リアリストとしての側面が高く評価されています。乱の長期化は彼女一人の野心によるものではなく、幕府の統制力喪失という構造的欠陥が原因でした。
誤解2:応仁の乱の勝敗結果はどちらの勝ちか?
「東軍と西軍、結局どちらが勝ったのか?」という問いに対する歴史的事実は、「どちらも勝てず、共倒れの引き分け」です。乱の最中の1473年に両軍の総大将である山名宗全と細川勝元が相次いで病死。大義名分を失った軍勢は厭戦気分に包まれ、1477年に西軍の実力者・大内政弘が周防へ撤退したことで、乱はうやむやのまま終息を迎えました。
勝者は不在であり、敗者は「京都の都」と「室町幕府の権威」そのものでした。将軍の権威が失墜したことで、実力のある者が上の者を倒す下克上の風潮が定着し、地方分権的な戦国乱世へと突入したのです。