信玄の晩年における最大のドラマが、飛ぶ鳥を落とす勢いだった織田信長との対決でした。かつて信玄と信長は、養女の婚姻や頻繁な贈り物を通じて良好な友好関係を築いていました。それにもかかわらず、なぜ最終局面で激突することになったのでしょうか。
武田信玄と織田信長の同盟破棄理由の引き金となったのは、室町幕府第15代将軍・足利義昭による「信長包囲網」の要請と、徳川家康との勢力圏争いでした。信長が義昭を傀儡として扱い、比叡山延暦寺の焼き討ちなど苛烈な行動を強める中、仏教秩序を重んじる信玄は自らを「天台座主沙門信玄」と名乗り、仏敵討伐の大義名分を掲げました。さらに実利面でも、武田軍の領土拡張先である遠江・三河を巡って家康との対立が決定期的となり、家康と同盟を結ぶ信長との決裂は不可避となったのです。
元亀3年(1572年)10月、信玄は総勢約3万の大軍を率いて西上作戦を開始。三方ヶ原の戦いでは家康の軍勢を一蹴し、信長を絶体絶命の危機に追い込みました。しかし、京都へ向かう途上の三河・野田城包囲戦の最中、突如として信玄の健康状態が悪化し、軍を甲斐へ反転させることになります。
そして天正元年(1573年)4月12日、信濃国駒場(現在の長野県阿智村付近)で信玄は帰らぬ人となりました。武田信玄の死因と真相については、古くから野田城で鉄砲の名手に狙撃されたという「銃創説」が講談などで語られてきましたが、近年の史料検証では完全に否定されています。当時の書状に遺された吐血や衰弱の記録、主治医の手記などを総合すると、胃がんや食道がんなどの消化器系悪性腫瘍、あるいは肺結核(労咳)による病死であったことが極めて有力です。
臨終に際し、信玄は「我が死を3年間秘匿せよ」と遺言しました。これは、自らの圧倒的なカリスマで成立していた家臣団と近隣諸国への抑止力を維持するための、痛切な延命策でした。しかし、この秘密主義は後継者・勝頼のリーダーシップ確立を遅らせ、後の長篠の戦いでの大敗と武田家滅亡への伏線となってしまったのです。