太平洋戦争の終結直後、日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が真っ先に着手したのが「財閥解体」でした。財閥解体の理由としてGHQが挙げたのは、財閥が軍部と癒着し、日本を侵略戦争へと突き進める経済的基盤になったという点です。しかしその実態は、財閥の持つ強大な独占資本力を解体し、二度とアメリカの脅威にならないよう経済民主化を名目に骨抜きにする狙いがありました。
安田財閥は重化学工業の直営部門を持たなかったものの、三井・三菱に次ぐ巨額の金融資産を保有し、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦費調達を支える国債の大量引受や軍需企業への巨額融資を行っていたため、GHQから最重要ターゲットの一つとして指定されました。持株会社であった「合資会社安田保善社」は即座に解散を命じられ、安田一族の保有資産は財産税によって徹底的に没収されました。
さらにGHQは「安田」の商号使用を禁止。これにより、中核の安田銀行は1948年に富士山にちなんだ「富士銀行」へと改称を余儀なくされます。系列の保険会社や信託銀行も社名変更を強いられ、表舞台から「安田」の名が急速に姿を消していきました。
サンフランシスコ平和条約の発効によって占領が終わり、旧財閥系企業が再び集結を始めた際、三井・三菱・住友は戦前の看板を復活させ強固な企業集団を再構築しました。一方の旧安田系は、富士銀行をメインバンクとしていた浅野財閥や大倉財閥の系譜を引く企業群も糾合し、富士山の雅称から名付けた「芙蓉グループ」を結成します。
芙蓉グループは、三菱の「金曜会」や三井の「二木会」のような強力な株式持ち合いや同族支配を避け、社長会「芙蓉会」を中心とした「ゆるやかな企業連携組織」としての道を選びました。この緩やかな連帯こそが、各構成企業に強い独立性と柔軟性を与える結果となったのです。