この遺跡が世に知られた発端は、学術的な潜水発掘調査ではありませんでした。大正13年(1924年)、琵琶湖北部で「魞(えり)漁」や底曳網漁を営んでいた尾上(おのえ)集落の漁師たちが、引き揚げた網の中に奇妙な形の古い焼き物が引っかかっているのを発見したのがすべての始まりです。
当時の漁師たちの証言や手記によると、引き揚げられた土器はヘドロにまみれていたものの、泥を洗い流すと赤褐色の鮮やかな文様がくっきりと浮かび上がり、まるで昨日湖に落としたかのような完全な姿を保っていたと伝えられています。地元の古老たちは長年「湖底の主の宝物」として畏敬の念を抱き、大切に保管していました。
その後、京都帝国大学(現・京都大学)をはじめとする研究機関が調査に乗り出し、引き揚げられた遺物が縄文土器(早期・前期・中期・後期・晩期の各形式)、弥生土器、さらには古墳〜平安時代の須恵器・土師器であることが判明しました。数千年にわたる連続した時代の土器が一箇所から完形のまま網にかかるという前代未聞の事態に、考古学界は大きな衝撃を受けました。