早稲田大学早稲田キャンパスの正門を抜け、緑豊かな小道を北へ進むと、突如として16世紀英国の街角にタイムスリップしたかのような優美な木造風建築が現れます。これが「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(エンパク)」です。国内外の国公立美術館や私立博物館の多くが一般観覧料を改定するなか、エンパクは常設展・企画展ともに無料公開という極めて稀有な運営方針を貫いています。
この「無料公開」の背景には、設立の祖である坪内逍遥の経歴と功績、そして彼が抱いていた強烈な公共への奉仕精神が深く刻まれています。逍遥は明治期に『小説神髄』や『当世書生気質』を著して近代日本文学の扉を開いた文学者であり、演劇改良運動を牽引した劇作家・演出家でもありました。彼が約40年の歳月を費やして成し遂げた不朽の偉業が、ウィリアム・シェイクスピアの全戯曲(全40巻)の個人完訳です。
1928年(昭和3年)、逍遥の古稀(70歳)とシェイクスピア全集の完訳を寿ぐため、各界の有志や門下生、演劇関係者の寄付によって設立されたのが当館です。関係者の証言や当時の開館記録を紐解くと、逍遥は「演劇は一部の特権階級のものではなく、広く大衆と社会の知性を育む公共財であるべきだ」と語り、大学附属施設でありながら市民へ無償で広く開かれた学術空間にすることを強く望んだとされています。私立大学の独立採算枠組みを超え、文化遺産を万人に還元するという逍遥の理念が、開館から1世紀近くを経た2026年の現在も揺るぎなく継承されています。