物語の表層をなぞるあらすじは極めて静かです。英国で英国人男性と再婚し、二女のニキをもうけた未亡人の悦子。彼女の元を訪れたニキとの会話をきっかけに、悦子の意識は1950年代前半、原爆投下後の瓦礫から立ち上がろうとしていた長崎の夏へと遡ります。当時、最初の夫である二郎の子を身ごもっていた悦子は、荒れ果てたバラックで娘の万里子を育てていた風変わりな女性・佐知子と交流を持ちます。佐知子は進駐軍のアメリカ人兵士・フランクとの渡米を夢見ながら、娘をネグレクト気味に扱っていました。
しかし、文芸批評界や海外の研究論文で数多く指摘されている通り、悦子は典型的な「信頼できない語り手」として機能しています。作中、悦子の語りは客観的な事実の記録ではなく、自身の都合に合わせて無意識に編集された防衛的な回想に過ぎません。
佐知子の正体を巡る議論において、決定的な証拠となるのが終盤、長崎の丘へロープウェイで登った日の回想です。悦子は幼い万里子に向かって、それまで佐知子の台詞として語られていたはずの言葉を、自らの口から吐き出してしまいます。
「もし気に入らなければ、いつだって帰ってこられるのよ」
この発言の瞬間、語りの主語は完全に混濁します。長女・景子を日本からイギリスへと連れ出し、異国への適応不全に追い詰めて首吊り自殺へと至らしめた張本人は、佐知子ではなく悦子自身でした。悦子は「我が子を顧みずにアメリカ行きを強行した奔放な悪女・佐知子」という架空のフィルターを創り出すことで、「娘の人生を狂わせたのは自分ではない」と自らの無意識に言い聞かせていたのです。佐知子と万里子は、悦子と景子の分裂した過去の鏡像に他なりません。