彼女が「ミナミのアコ」として名を馳せたミナミのアコの経歴初期、すなわち1960年代の大阪・ミナミは、戦後の復興期から高度経済成長期へと突き進む混沌としたエネルギーに満ちていました。千日前や心斎橋のジャズ喫茶、ビリヤード場を根城にしていた彼女の元には、腕っぷしの強さと仁義に惹かれた若者たちが次々と集結したと記録されています。
全国放送のトーク番組(ABCテレビ『これ余談なんですけど…』など)において本人が赤裸々に語った証言によると、当時従えていた子分は「男ばかり700人」にのぼりました。他校の不良グループとの抗争や繁華街でのトラブルを素手で鎮め、地元警察からも一目置かれる存在として警戒されていたエピソードは、単なる誇張ではなく当時の関係者や同級生の手記でも裏付けられています。
この桁外れのカリスマ性に目を留めたのが、ホリプロの創業者である堀威夫氏でした。ミナミのジャズ喫茶でリズム・アンド・ブルースを歌い上げていた彼女の天性のハスキーボイスと威圧的なオーラを見出され、1968年に「星空の孤独」でレコードデビューを果たしたことで、「街の顔役」から「芸能界のスター」への劇的な転身が成し遂げられました。