平野長泰の生涯において、彼の人間的魅力と頑固な気骨が最も鮮烈に刻まれたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、そして慶長19年(1614年)の大坂の陣における動向です。
関ヶ原の戦いで、長泰は徳川秀忠率いる本隊に属して中山道を進軍しました。しかし秀忠隊は信濃上田城の真田昌幸・信繁攻めに手間取り、関ヶ原の決戦当日に遅参。長泰自身も華々しい合戦功名を残す機会を失いました。豊臣恩顧の将の間で「家康にへつらって加増を勝ち取ろう」という空気が充満する中、長泰の胸中は終始複雑でした。
その胸中が爆発したのが、徳川と豊臣の最終決戦となった大坂の陣です。江戸中期の逸話集『武辺咄聞書』や諸記録によると、大坂冬の陣が勃発した際、長泰はあろうことか徳川家康の御前に進み出て、真っ直ぐにこう請願したとされています。
「かつて秀吉公に受けた御恩は粉骨砕身しても返せるものではございません。どうか私を大坂城に入城させ、秀頼公のお側で華々しく討ち死にさせていただけないでしょうか」
主君である家康の目の前で「敵城に入って主家の恩のために死にたい」と告げる行為は、通常であれば即座に打ち首、良くて改易追放になってもおかしくない狂気の直訴でした。しかし家康はその言葉に激昂するどころか深く沈黙し、「そなたの秀吉公に対する情誼の深さは見事である。だがその願いを聞き届けるわけにはいかぬ」と冷徹に拒絶。長泰を処罰することなく、「江戸城の留守居」に留め置く命令を下しました。
家康の判断には、老獪な政治計算がありました。「賤ヶ岳の七本槍」のブランドを持つ歴戦の勇士が大坂城に入城すれば、城内の士気は跳ね上がり、諸大名へのプロパガンダとしても大きな打撃になりかねません。長泰の義理堅さを利用して江戸に軟禁・留守居とすることで、豊臣家への加勢を完璧に封じ込めたのです。長泰は江戸の空の下で大坂落城と豊臣家の滅亡を見届けることとなりました。恩義に殉ずることは叶いませんでしたが、その武士の一徹さは江戸の旗本衆や幕閣たちに強烈な畏敬の念を植え付けることになりました。