1578年(天正6年)冬から始まった有岡城の戦いにおいて、歴史の大きな転換点となったのが、秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛(当時は小寺孝高)の幽閉劇です。
官兵衛は村重を説得して織田方に復帰させるため、単身で有岡城に乗り込みました。しかし、村重は説得に応じるどころか官兵衛を捕らえ、城内の湿気と暗闇に包まれた土牢に閉じ込めます。この幽閉は約1年間に及び、官兵衛は膝の関節を痛めて歩行が不自由になり、頭部にも重い皮膚病の痕が残る過酷な日々を強いられました。
ここで疑問となるのが、「なぜ村重は官兵衛を即座に処刑しなかったのか」という点です。史料の分析によると、村重は信長への完全な敵対姿勢を示しつつも、万が一の和平交渉における重要な人質(交渉カード)として官兵衛を生かしておく計算が働いていたとみられています。また、かつて播磨の情勢を通じて親交があった官兵衛に対する個人的な躊躇も完全に否定はできません。
有岡城が落城した際、栗山善助ら黒田家臣団によって救出された官兵衛は、信長から「村重に寝返った」と誤解されて一時は息子の松寿丸(後の黒田長政)を処刑されかける危機に瀕していました(竹中半兵衛の機転で松寿丸は助命)。官兵衛の幽閉は、豊臣政権の誕生へと繋がる人間ドラマの濃密な交差点となったのです。