髭男爵のネタといえば、きらびやかなワイングラスを掲げる姿が代名詞でした。しかし、ブレイク当時のグラスに注がれていたのは本物のワインではなく、市販のグレープ炭酸飲料だったことは有名な逸話です。2008年6月21日に放送された毎日放送『OSAKA漫才ヴィンテージ』では、白熱したツッコミのなかでひぐち君の持つグラスが9回目の衝突で割れてしまうアクシデントが発生。舞台袖に動揺しながら破片を片付ける様子が客席の爆笑を誘うなど、当時の彼らにとってワインはあくまで「漫才を成立させるための小道具」に過ぎませんでした。
転機が訪れたのは、テレビのレギュラー番組が激減し、いわゆる「一発屋」として扱われるようになった30代後半のことでした。「キャラとしてワイングラスを持ち続けてきたが、自分はワインのことを何も知らないのではないか」という根源的な問いに直面したひぐち君は、一念発起して本格的な勉強を開始。2015年、一般愛好家向けとしては最高峰の難易度を誇る一般社団法人日本ソムリエ協会認定の「ワインエキスパート」資格を見事に一発合格で取得しました。
彼の真骨頂は、芸能人特有の「資格タレント」で終わらなかった点にあります。輸入ワインではなく、気候変動や後継者不足に挑む「日本ワイン」の魅力と可能性に深く傾倒。北海道から宮崎まで全国100カ所以上ものワイナリーへ自費で足を運び、ブドウの収穫や醸造作業を手伝うなど、現場の生産者と同じ泥にまみれながら知見を深めていきました。そのひたむきな姿勢は生産者や業界関係者の心を動かし、2020年には日本ワイナリー協会の「日本ワインアンバサダー」に就任。さらに2022年、長年の普及活動が認められ、日本ソムリエ協会から各界の功労者に贈られる「名誉ソムリエ(ソムリエ・ドヌール)」の称号を授与されるに至りました。
同年に上梓された著書『髭男爵ひぐち君の語る日本ワインサロン』は、単なるカタログ本ではなく、醸造家の思想や風土の物語を緻密に言語化した名著として専門誌からも高く評価されています。「小道具のワイン」を自らの「生き方」へと昇華させたことこそが、彼が現在の確固たる地位を築いた最大の要因です。