一向一揆の歴史を語る上で外せないのが、加賀国(現在の石川県南部)で起きた加賀一向一揆です。1488年(長享2年)、加賀の守護大名であった富樫政親(とがしまさちか)が高尾城を取り囲まれ、約20万と号する一向門徒の軍勢の前に自刃しました。守護を打ち倒した門徒たちは、その後、織田軍の柴田勝家や前田利家に制圧される1580年まで、およそ1世紀にわたり独自の支配体制を築きます。これこそが、当時の公家日記『実隆公記』にも記された「百姓の持ちたる国」の正体です。
従来、この現象は「虐げられた貧しい農民による暴動と略奪」と見なされがちでした。しかし、現代の中世史研究によって明らかになった実態は全く異なります。加賀の統治体制は極めて合議的かつ機能的な地方分権型共和国でした。
頂点に立つのは本願寺から派遣された下間(しもつま)氏などの坊官ですが、実際の政治運営は加賀国内の土豪、地侍、商人、そして富裕な名主層(上層農民)によって構成される「講(こう)」の連合体によって担われていました。彼らは領主の不当な年貢取り立てを排除し、独自の税制を確立。寺院を通じて治安維持や裁判を行い、地域のインフラ整備を門徒の相互扶助によって支えていたのです。
封建領主に搾取される奴隷的立場から、自らの手で法と社会秩序を維持する構成員へ。この劇的な社会変革を味わった加賀の民衆にとって、一向宗(本願寺教団)の信仰は単なる精神の慰めではなく、自由と生活基盤を守るための政治的生命線でした。だからこそ、武力侵攻に対して女子供までもが石を投げて抵抗するほどの凄まじい防衛戦争が展開されたのです。