ネット上のQ&AサイトやSNSでは、歌舞伎の見得に関して事実とは異なる言説がまことしやかに語られることがあります。ここでは代表的な2つの誤解を是正します。
誤解1:「寄り目をすると視力が悪くなる、あるいは斜視の後天的な原因になる」
医学的知見に基づけば、大人が意図的に短時間寄り目(輻輳運動)をしたからといって、恒久的な斜視になったり視力が低下したりする科学的根拠はありません。歌舞伎役者は幼少期から眼筋を柔軟に動かす稽古を重ねており、むしろ眼球を自在にコントロールする運動能力が常人離れしているに過ぎません。演技が終われば瞬時に通常の視線へ戻るため、身体的な後遺症が残るという俗説は完全な誤りです。
誤解2:「どんな演目でも、盛り上がったら見得を切る」
見得はあらゆる歌舞伎の場面で無差別に使われるわけではありません。見得が多用されるのは、主に江戸発祥の豪快なヒーロー劇である「荒事(あらごと)」や時代物です。一方、京都・大阪の上方で発展した「和事(わごと)」や、庶民の日常をリアルに描く「世話物(せわもの)」では、大げさな見得を切りすぎると芝居の自然な情感が壊れてしまいます。世話物では首をわずかに傾けて余情を残す「極まり(きまり)」と呼ばれる繊細な静止技法が用いられ、大立ち回りの見得とは厳格に区別されています。
【プロの結論】様式美を味わえる人と違和感を抱きやすい人の判断基準
歌舞伎の見得という演出技法を心から楽しめるかどうかは、観客が演劇に何を求めているかによって明確に分かれます。
【歌舞伎の見得を120%満喫できる人】
- 映画やアニメの「決めポーズ」「必殺技のカットイン」のような劇的な演出美が好きな人
- ストーリーの辻褄だけでなく、俳優の立ち姿や肉体美、舞台全体の「一枚の絵画のような美しさ」を愛でられる人
- ツケ打ちの音や客席の大向うなど、劇場が一体となって高揚するライブ空間を楽しみたい人
【最初のうちは違和感を覚えやすい人】
- 近代リアリズム演劇やハリウッド実写映画のように、現実世界の自然な会話や日常の仕草だけを求める人
- 「なぜ命懸けの戦闘中に数秒間も静止して敵に隙を見せるのか」といった論理的リアリティを過剰に気にしてしまう人
歌舞伎は「嘘を本物に見せる」リアリズムではなく、「極端な嘘(誇張された様式)の中に、人間の本質的な感情の真実を浮き彫りにする」演劇体系です。この前提を頭に入れておくだけで、見得の静止時間は不自然な停止ではなく、感情が沸点に達した究極の芸術表現として眼前に迫ってきます。