劇画やドラマの影響で、小次郎といえば燕返しを操る長身痩躯の若き天才美剣士というパブリックイメージが定着しています。しかし、歴史学の世界では佐々木小次郎の実在性そのものや実年齢を巡って長年議論が続けられてきました。 実は、武蔵自らが著した不朽の名著『五輪書』には、小次郎の名前すら一言も登場しません。武蔵は生涯で60数回の勝負にすべて勝利したと誇らしげに記す一方で、後世最大の決闘相手とされる巌流について沈黙を守っています。 小次郎の出自を裏付ける重要な手掛かりが、越前の武芸者・富田勢源(中条流)との師弟関係です。複数の武術伝書において、巌流(小次郎)は富田勢源の弟子、あるいは勢源の弟子の鐘捲自斎の弟子と記録されています。富田勢源が活躍したのは16世紀半ば、戦国時代真っ只中です。もし小次郎が勢源本人から直接手ほどきを受け、奥義を極めた人物であったとするならば、慶長17年(1612年)の決闘当時、小次郎の年齢は少なくとも60代から70代に達していた計算になります。 決闘時、宮本武蔵は数え年で29歳前後。すなわち、実際の巌流島の戦いは「血気盛んな20代の若武者が、一家言を持つ円熟の老大家に挑んだ勝負」であった可能性が濃厚なのです。吉川英治が小説を執筆する際、物語の対比を際立たせるために小次郎を武蔵と同年代のライバルとして造形したことが、現代のイメージを決定づけました。
武蔵と小次郎巌流島の真相|遅刻の謎と吉川英治小説の虚実を徹底検証
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