旧日本軍が正規の兵器として特攻専用機の開発に舵を切った背景には、1944年6月のマリアナ沖海戦における壊滅的敗北と、絶対国防圏の崩壊がありました。空母機動部隊と多数の熟練搭乗員を一度に失った大本営は、通常戦術による反撃が完全に不可能となった現実を突きつけられます。
同年10月のレイテ沖海戦において、海軍中将・大西瀧治郎が指揮した関行男大尉率いる「神風特別攻撃隊(敷島隊)」の体当たり攻撃が一時的に米軍空母へ損害を与えると、軍上層部はこの結果を「起死回生の決戦戦法」として誤認・過大評価しました。ここから、現場の窮余の策であった体当たり攻撃が、国家主導による計画的な「特攻兵器の開発・量産」へとエスカレートしていきました。
当時の大本営海軍部・軍令部関係者の手記や公式記録によると、「通常兵器の生産力や燃料が枯渇する中、命中率を100%に近づける唯一の手段は人間自身を誘導装置にすることである」という、倫理を著しく欠いた工学的合理主義が軍部を支配していました。こうして陸海軍は、搭乗員の生還を一切考慮しない専用特攻兵器の設計を本格化させたのです。