ここで、咳に苦しむ多くの生活者が陥りがちな、極めて危険な医療常識の誤解を暴いておかなければなりません。ドラッグストアに駆け込み、「とにかく咳を止めたいから一番強力な咳止め薬をください」と購入する行動――これは痰が絡む湿性咳嗽においては、病状を自ら悪化させる致命的なミスになり得ます。
市販の一般的な咳止め薬(鎮咳薬)の多くには、ジヒドロコデインリン酸塩やデキストロメトルファンといった成分が含まれています。これらは延髄にある「咳中枢」を麻痺させ、咳反射を強制的に遮断する薬剤です。乾いた咳(空咳)には著効しますが、痰が絡む咳に対してこれらの中枢性鎮咳薬を使用すると、本来体外へ排出しなければならない細菌やウイルスの塊である痰が、気管支や肺の奥深くに長期間閉じ込められてしまいます。
その結果、気道内で細菌が爆発的に繁殖し、気管支炎が悪化して肺炎を発症したり、気道が痰で完全に塞がれて肺の一部が潰れる「無気肺」という重篤な合併症を引き起こしたりする危険があります。医療現場において呼吸器内科医が湿性咳嗽に対して中枢性鎮咳薬を単独処方することは原則としてありません。
正しい選択肢は、咳を無理やり止めることではなく、痰の滑りを良くして速やかに吐き出させる「去痰薬(きょたんやく)」を選択することです。この薬理学的アプローチの違いを理解していないと、良かれと思って服用した市販薬が原因で治癒が大幅に遅れるという皮肉な結果を招きます。