1600年の関ヶ原の戦いにおいて、勝敗を分けた決定的な理由は「豊臣恩顧大名の分断」でした。石田三成ら西軍に対し、福島正則や黒田長政ら秀吉直系の武将たちが東軍(家康側)の主力として戦った事実は、家康の卓越した政治工作力と三成ら文治派への反発の深さを如実に示しています。
関ヶ原の勝利で実質的な覇権を掌握し、1603年に征夷大将軍に就任した家康ですが、それでも豊臣家は依然として65万石を領する巨大な脅威であり続けました。そして迎えた1614〜1615年の大坂の陣(冬の陣・夏の陣)。
その開戦理由として名高い「方広寺鐘銘事件(国家安康・君臣豊楽の文字を呪詛と見なした問題)」は、家康が仕掛けた決定的な口実に過ぎません。真相は、徳川政権による全国統一の支配構造(幕藩体制)の中に、治外法権的な地位を固持しようとした豊臣家がどうしても共存できなかったという、国家統治上の根本的矛盾にありました。