猗窩座が人間であった頃の名は「狛治(はくじ)」。彼の過去は、『鬼滅の刃』に登場する全キャラクターの中でも屈指の悲愴さに満ちています。
病弱な父親を救うため、狛治は幼い頃からスリを繰り返していました。奉行所に捕まるたびに激しい拷問を受け、腕に罪人の証である刺青を彫られながらも、父に薬を飲ませたい一心で盗みをやめませんでした。しかし、その事実を知った父親は「真っ当に生きてくれ」と遺書を残し、自ら首を吊って命を絶ってしまいます。守るべきものを失い、自暴自棄になって荒れ狂っていた狛治を拾ったのが、素流(そりゅう)拳法の道場主・慶蔵でした。
慶蔵には、生まれつき体が弱く、看病なしには生きられない一人娘・恋雪(こゆき)がいました。慶蔵は狛治に恋雪の看病を任せ、狛治は献身的に彼女を支え続けます。恋雪の体調は次第に回復し、狛治の荒んだ心も、無条件の愛情を注いでくれる慶蔵と恋雪の存在によって徐々に温もりを取り戻していきました。
狛治が18歳になった年、慶蔵は道場を狛治に継がせ、恋雪を妻にしてほしいと告げます。恋雪もまた狛治を深く愛しており、花火の下で不器用ながらも「命に代えても守る」と誓い合いました。父親を失った少年が、ようやく掴み取ったささやかな幸福でした。
その幸福は、あまりにも理不尽かつ残酷な形で踏みにじられます。狛治が亡き父の墓前へ祝言の報告に向かっていた留守中、素流道場を快く思っていなかった隣接する剣術道場の門弟たちが、素流道場の井戸へ猛毒を混入させたのです。毒を飲んだ慶蔵と恋雪は、激しい苦痛の中で命を落としました。
墓前からの帰途で二人の訃報を聞いた狛治の精神は完全に崩壊しました。彼は単身で剣術道場へ殴り込みをかけ、武器を手にした門弟67人を素手で殴殺。遺体は原型をとどめないほど損壊していました。事件を聞きつけ、鬼の仕業と勘違いして現れた鬼舞辻無惨に対し、狛治は虚ろな瞳で拳を振るいましたが、頭部を貫かれ、無理やり大量の血を注ぎ込まれます。人間時代の記憶をすべて破壊され、ただ「強さを求める戦闘機械」としての鬼・猗窩座が誕生したのです。