競馬界で「西高東低」が叫ばれ始めたのは、1980年代後半から1990年代初頭にかけてのことです。それ以前の日本競馬は、名門がひしめく関東が優勢、あるいは互角の勝負を繰り広げていました。しかし、1985年に栗東トレーニングセンター(滋賀県)へ日本初となるウッドチップ坂路コースが新設されたことで、潮目が一気に変わります。
平坦なトラックコースでの調教が主流だった時代に、馬の心肺機能と後肢(トモ)の筋力を効率的に鍛え上げられる坂路の導入は、調教理論そのものを根底から覆すイノベーションでした。栗東の調教師陣は坂路を徹底的に活用し、鍛え上げた馬体でレースに臨む調教手法を確立。一方で、美浦トレーニングセンター(茨城県)への坂路導入は1993年まで遅れ、その高低差や勾配も栗東に比べて緩やかだったため、競走馬の基礎体力作りに埋めがたい差が生じてしまったのです。
さらに、好成績を挙げる栗東の調教師のもとには全国の有力馬主から良血馬が集まるという「勝利の好循環」が生まれました。関西のトップジョッキーたちが切磋琢磨して腕を磨く一方で、関東は有力馬の流出と成績低迷の悪循環に苦しむことになります。関係者への取材や当時の手記でも「関西へ馬を預託しなければ大レースは勝てない」と馬主サイドが公言するほど、東西の格差は構造的なレベルで固定化されていました。