出浦盛清(対馬守)の生涯は、戦国武将の中でも群を抜いて数奇かつ凄絶です。弘治年間(1550年代半ば)に生まれたとみられる盛清は、当初、信濃侵攻を進める武田信玄に臣従しました。信玄はその類まれな情報収集力と土地鑑を高く評価し、盛清を武田の隠密組織である「透破(素破)」の頭領に抜擢したと伝わります。
1582年の武田家滅亡後、盛清は織田信長の重臣で信濃支配を任された森長可(鬼武蔵)に仕えました。ここでの行動が盛清の評価を決定づけます。本能寺の変が勃発し、信濃全土で織田軍への大規模な一揆が起きた際、周囲の土豪が次々と裏切るなか、盛清は森長可を裏切らず、千曲川を越えて美濃へと脱出する決死の退却戦を道案内として命がけで完遂しました。森長可はこの義理堅さと胆力に深く感謝し、盛清に名刀を与えて報いたという記録が残されています。
その後、北信濃の覇権を争うなかで、知将・真田昌幸の傘下に入ります。昌幸は盛清の能力を絶賛し、単なる隠密頭にとどまらず、上野国の要衝・岩櫃城代(吾妻郡)に任命しました。盛清は手飼いの忍びたちを各地へ潜入させて情報を操作し、小県・吾妻の防衛ラインを完璧に掌握。徳川・北条・上杉という大大名に囲まれた真田家が独立を維持できた背景には、盛清による卓越したインテリジェンス(諜報戦)がありました。