岩倉具視幽棲旧宅の真実|なぜ5年も隠遁?龍馬密談の舞台を徹底解剖

岩倉具視幽棲旧宅の真実|なぜ5年も隠遁?龍馬密談の舞台を徹底解剖

岩倉具視幽棲旧宅の真実|なぜ5年も隠遁?龍馬密談の舞台を徹底解剖とはどんな影響があるのか? 詳しい意味を丁寧に紐解いて紹介します。

朝廷の最高権力者として明治新政府を牽引した岩倉具視ですが、その半生は決して順風満帆なものではありませんでした。文政8年(1825年)に堀河康親の次男として生まれ、のちに岩倉家の養子となった具視は、幼少期から卓越した政治的嗅覚を示していました。しかし、幕末の動乱期における激しい政争が、彼の運命を一変させることになります。

具視が洛中を追われる決定打となった幽棲の理由は、幕府と朝廷を結びつける「公武合体」の推進でした。第14代将軍・徳川家茂への皇妹・和宮降嫁を取りまとめたことで、尊王攘夷派の志士たちから「幕府に阿る奸臣」とみなされ、猛烈な糾弾を浴びることになったのです。当時の京都では天誅と称する暗殺が横行しており、具視は「四奸二嬪(しかんにひん)」の首魁として命を狙われる身となりました。

文久2年(1862年)、尊攘派の圧迫に屈した朝廷から辞官落飾(官位を辞し出家すること)を命じられた具視は、法名を「友山」と名乗り、洛中からの退去を強いられました。逃亡の果てに選んだのが、岩倉家の祖先とゆかりが深く、京都中心部から険しい山で隔てられた洛北の岩倉村でした。当初は実相院の末寺などに身を寄せましたが、元治元年(1864年)に大工の藤吉が所有していた素朴な民家を買い取って増改築を行い、慶応3年(1867年)に赦免されるまでの約3年間、この地を生活の拠点としたのです。全体で約5年間に及んだ隠遁生活は、まさに政治的死線からのサバイバルでした。

山本 拓海
著者

山本 拓海

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。