母娘の快進撃が頂点に達した1990年代前半、日本中を巻き込む二大事件が勃発します。その中心にいたのが、プロデューサーとしての宮沢光子氏でした。
1つ目の転機は、1991年に発売された篠山紀信氏撮影によるヌード写真集『Santa Fe(サンタフェ)』です。当時わずか18歳、清純派トップアイドルとして絶大な人気を誇っていた宮沢りえのフルヌードは社会現象となり、累計発行部数155万部超という写真集界の金字塔を打ち立てました。のちに明かされた撮影秘話によると、ヌード撮影であることを事前にりえ本人へ伝えず、現地アメリカ・サンタフェで母・光子氏が「脱ぎなさい。今の一番美しい姿を残すべき」と説得したと報じられています。娘の美しさを芸術の領域に昇華させようとする執念と、世間を欺く大胆なメディア戦略が結実した瞬間でした。
そして2つ目の事件が、1992年秋に発表された大相撲の若き至宝・貴花田(のちの横綱・貴乃花)との婚約、そしてわずか2か月後の「電撃破棄」です。「世紀のカップル」と祝福され、記者会見で初々しい笑顔を見せた二人を引き裂いた最大の要因は、相撲部屋という伝統的組織に娘を入れたくない母・光子氏の強硬な介入でした。
梨園や相撲界の「女将さん」になれば、女優・宮沢りえのキャリアは事実上終了します。光子氏は親交の深かった大物歌手・美川憲一氏に「りえを説得してほしい」と依頼したと、美川氏自身がのちに明かしています。母からの強い反対と、「大女優として世界へ羽ばたくべき」というプレッシャーに挟まれたりえは苦渋の決断を下し、単独会見で「強い気持ちがなくなりました」と涙を浮かべて破局を告げました。