仁科盛信は弘治3年(1557年)、武田信玄と側室・油川夫人(油川信友の娘)の間に生まれました。同母兄には葛山信貞、同母姉妹には織田信忠との婚約で知られる松姫や、穴山梅雪の妻となった見性院がいます。信玄の子息のなかでも、異母兄である武田勝頼を支える重要な一門衆として位置づけられていました。
永禄4年(1561年)頃、信玄の信濃侵攻に伴い、信濃国安曇郡の国人領主・仁科氏の家督を継承。名門・仁科盛政の名跡を継いで「仁科五郎盛信」と名乗ります。これは武田家による信濃支配を安定させるための典型的な政略養子縁組でしたが、盛信は安曇・筑摩の国衆を束ねる領主として着実に実力を蓄えていきました。
勝頼体制下において、盛信は北信濃および越後・上杉氏に対する防衛の要所を担う一方、天正10年の織田軍侵攻時には信濃防衛の最終防衛拠点である高遠城(長野県伊那市)の城主として配備されます。兄・勝頼を補佐しつつ、武田の領国崩壊を最前線で食い止めようとした盛信の胸中には、武田宗家への絶対的な忠誠と、自らの誇りに対する強烈な自負が渦巻いていたと考えられます。