大谷翔平の少年時代と驚愕伝説|父と交わした約束と生い立ちの全真相

大谷翔平の少年時代と驚愕伝説|父と交わした約束と生い立ちの全真相

大谷翔平の少年時代と驚愕伝説|父と交わした約束と生い立ちの全真相の全貌を丁寧に掘り下げてご紹介します。

本格的に白球を握ったのは、小学3年生の秋に地元の水沢リトルリーグに入団したときでした。この頃から、同級生たちとは根本的に異なる身体の出力とスケール感を発揮し始めます。小学5年生を迎える頃には、当時の小学生としては異次元の球速110km/h台後半を軽々と叩き出し、最終学年時には120km/h前後に達していました。当時の対戦相手や関係者の証言によると、「低めの真っ直ぐは打席に立つとホップして浮き上がって見え、バットを振ることすら怖がる子どもが続出した」といいます。

特筆すべきは、当時の大谷選手が変化球をほとんど投げていなかった点です。大半の小中学生投手が勝利を欲するあまりスライダーやカーブの習得に走るなか、指導者でもあった父・徹さんは、成長期における肘や肩への負担を極度に警戒し、ストレートとチェンジアップ系の緩急のみを指導しました。速球だけで圧倒できるスピードがありながら、骨端線が閉じていない未完成な骨格を徹底して守り抜いた配慮が、長期的な肩肘の健康を担保したのです。

さらに、バッティングにおいても語り継がれる「少年時代の規格外伝説エピソード」が残されています。水沢リトルの練習グラウンドは堤防沿いにありましたが、大谷選手が放った打球があまりにも遠くまで飛び、ライトフェンス後方の奥州街道を走る車に直撃する危険が生じました。さらに川を越えて向こう岸までボールが届いてしまう事態が頻発したため、指導陣は大谷選手に対して「ライト方向への引っ張り禁止(センターからレフト方向への流し打ち限定)」という前代未聞のルールを課しました。打球を無理に引っ張らず、センターから逆方向へ力強く押し込む現在の大谷選手のバッティングスタイルは、このリトル時代のローカルルールが副産物として生み出した技術でもあります。

橋本 菜々子
著者

橋本 菜々子

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。