「『そこ』の英語表現はthereだけで合っているのか」という疑問に対する端的な答えは、「物理的な位置を漠然と指す場合を除き、ほとんどのケースで不十分である」となります。大手英会話スクールのカリキュラム開発担当者や現場の翻訳者への取材によると、日本人が最も頻繁に犯すミスのひとつが、相手のパーソナルスペースにある物を指して「there」と言ってしまう現象です。
英語圏の認知体系において、空間は基本的に「話者自身に近い場所(here)」と「それ以外の離れた場所(there)」という二項対立で整理されます。日本語のように「話し手の領域(これ・ここ)」「聞き手の領域(それ・そこ)」「双方から離れた領域(あれ・あそこ)」という三項対立(コソア体系)を持たないため、日本語の「そこ」に該当する単語が一語で綺麗に対応するわけではありません。
聞き手のすぐ手元にある書類やスマートフォンを指したいとき、ネイティブスピーカーは「there」ではなく、「right by you」や「next to you」、あるいは状況によって「over there」といった具体的な位置指定を用います。漠然と「Put it there.」と言うと、相手は「部屋の隅のあの場所か?」「テーブルのどの位置だ?」と困惑することになります。thereとover thereの違いを正しく把握し、相手との心理的・物理的距離に応じた語彙を選択することが不可欠です。