歌舞伎界における坂東玉三郎の歩みは、梨園の歴史において奇跡と呼ぶべき特異な軌跡を描いています。伝統芸能の世界では「家柄」や「血統」が重視される傾向が根強く残る中、玉三郎の生家は日本橋の料亭「喜作」であり、歌舞伎俳優の血筋ではありませんでした。
その天賦の才を見抜いたのが、十四代目守田勘弥でした。1956年に坂東喜の字を名乗って初舞台を踏んだ後、勘弥の部屋子となり、1964年には芸養子として五代目坂東玉三郎を襲名します。血縁関係のない一般家庭から梨園の名門へ飛び込んだ若い頃の苦闘は並大抵のものではありませんでした。楽屋内の複雑な人間関係や御曹司たちとの見えない壁に直面しながらも、玉三郎は圧倒的な稽古量と美に対する執着で頭角を現します。
昭和40年代、三島由紀夫は玉三郎の舞台を観て「奇跡のような美少年」「彼がいるだけで舞台に詩が生まれる」と激賞し、文壇や劇壇の文化人たちを熱狂させました。昭和の絶対的女方であった六代目中村歌右衛門と対峙し、その芸の真髄を間近で吸収しながら、玉三郎は古典歌舞伎の様式美を完璧に習得していきます。そして2012年、文部科学省は彼を重要無形文化財保持者(人間国宝)に各個認定しました。女方としては当時の歌舞伎界史上最年少となる62歳での認定であり、血筋の後ろ盾を持たない俳優が純粋な芸の力のみで最高峰の栄誉を勝ち取った歴史的瞬間でした。