戦国時代には織田信長らによって保護されたキリスト教ですが、豊臣秀吉の「バテレン追放令」(1587年)を経て、徳川家康以降の江戸幕府は徹底した弾圧へと舵を切りました。幕府がここまでキリスト教を警戒した理由は、単なる宗教的対立ではなく、支配体制を揺るがす軍事・政治的リスクにありました。
当時、キリスト教の布教はスペインやポルトガルによる植民地拡大政策と密接に結びついていました。さらに、キリスト教の「神の下の平等」や「現世の権力者より神を上位に置く教義」は、徳川の幕藩体制や絶対的な主従関係を根底から否定しかねない危険思想とみなされたのです。
弾圧の決定打となったのが、1637年に勃発した「島原の乱」です。領主の過酷な年貢取り立てと過激なキリシタン弾圧に耐えかねた農民たちが、カリスマ少年天草四郎(益田時貞)を総大将に担ぎ、約3万7,000人で島原城や原城跡に立てこもりました。幕府軍は12万人以上の軍勢を投入してこれを鎮圧し、反乱軍はほぼ全滅。この反乱の苛烈さに危機感を深めた幕府は、1639年のポルトガル船来航禁止(鎖国の完成)と全国的な宗教統制の強化へ一気に踏み切りました。
幕府は庶民全員を近隣の寺院に登録させる「宗門改(しゅうもんあらため)」や「寺請制度」を義務化し、キリストや聖母マリアの像を踏ませる「踏み絵」を年中行事として定着させました。踏むことを拒否した者は過酷な拷問(雲仙地獄での熱湯責めや穴吊り)を受け、改宗しなければ処刑されるという極限の恐怖政治が敷かれたのです。