戦国史最大の謎とされる「なぜ織田信長は圧倒的劣勢から今川義元を討ち取れたのか」。その疑問に対する答えは、長らく信じられてきた「迂回奇襲説」の否定と、一次史料に基づく「正面攻撃説」へのパラダイムシフトによって極めて論理的に説明づけられます。
信長の家臣・太田牛一が記した一級史料『信長公記(しんちょうこうき)』には、山陰を隠れて回り込んだという記述は一切存在しません。信長は善照寺砦から中島砦へと堂々と進軍し、前線の中島砦から義元本隊の陣取る「おけはざま山」へ向けて、街道沿いから一直線に突撃を敢行したと記録されています。
勝敗を分けた決定的な要素は、偶然の産物ではなく以下の3点に集約されます。
第一に、徹底した情報収集と指揮官の位置特定です。信長は梁田政綱(やなだまさつな)ら現地に精通した武将を通じて、義元本隊の正確な滞陣位置をリアルタイムで把握していました。義元を守る親衛隊が約5000人程度にまで絞られていたタイミングを、信長は見逃しませんでした。
第二に、猛烈な豪雨という気象条件の完全掌握です。視界を遮り、周囲の物音をかき消すレベルの風雨は、織田軍にとっては進軍を隠蔽する盾となり、風下にいた今川軍にとっては索敵機能を完全に麻痺させる罠となりました。
第三に、局地戦における電撃的な戦力集中です。今川軍2万5000は街道沿いに細長く伸び、大高城や砦の守備、補給部隊へと分散していました。信長は全軍2000〜3000を義元の本陣一点のみに集中的に衝突させたため、衝突地点における兵力比はほぼ互角、あるいは突撃の勢いを含めれば織田軍優位の状況を作り出していたのです。
今川義元の敗因を一言で言えば、「成功体験の直後に生じた心理的油断と兵力分散」です。前哨戦の完全勝利によって織田軍の反撃能力を低く見積もり、防衛陣形を十分に整えないまま休息に入った隙を、信長の神速の決断が直撃しました。