共同運輸会社との熾烈な値下げ競争がピークに達していた明治18年(1885年)2月7日、岩崎弥太郎は東京・本郷の湯島本邸にて息を引き取りました。享年50。岩崎弥太郎の死因は進行性の胃がんでした。
過密な激務と極度のストレス、そして日頃の豪快な暴飲暴食が病状を急速に悪化させたとされています。弥太郎は自らの死期を悟ると、弟の岩崎弥之助を枕元に呼び、「社業の全権をお前に託す。共同運輸との競争に決して屈するな」と遺言を残しました。弥太郎の死後、泥沼化していた競争を収拾するため農商務卿・西郷従道らの仲介により三菱と共同運輸は合併し、現在も世界有数の海運会社として君臨する日本郵船が誕生することになります。
弥太郎が一代で築き上げた遺産の規模は、当時の日本経済の常識を遥かに超越していました。当時の公的記録や財閥史料によると、遺された純資産は約1,000万円以上と試算されています。当時の国家予算(一般会計歳入)が約6,000万〜8,000万円前後であった時代背景を踏まえ、現在の国家予算や貨幣価値、不動産価値に換算すると資産の現代価値は数兆円から十数兆円規模に匹敵します。
さらに弥太郎は海運だけでなく、長崎造船所の払い下げ(現・三菱重工業の祖)や高島炭鉱の買収、丸の内の広大な陸軍用地の買収(現・三菱地所の原点)など、次代の日本の重工業・都市開発を支える資産ポートフォリオを的確に押さえていました。