三角縁神獣鏡を巡る最大の争点、それは中国の歴史書『魏志倭人伝』に刻まれた「景初二年(238年)十二月、魏の明帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜した」という記述との整合性です。この記述を金科玉条とし、三角縁神獣鏡こそがその100面であると主張してきたのが邪馬台国近畿説を支持する研究者たちでした。奈良県の箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳の出現時期と、三角縁神獣鏡の分布域が近畿地方を中心に見事に重なり合うことが、その強固な論拠とされてきた歴史があります。
その根拠をさらに補強したのが、ごく一部の鏡に刻まれていた年号銘文でした。特に島根県の神原神社古墳などで確認された「景初三年」銘や、兵庫県などの「正始元年」銘を持つ三角縁神獣鏡の存在です。景初三年(239年)はまさに卑弥呼の朝貢時期と完全に符合します。当時の一流学者たちは「これぞ卑弥呼の鏡の決定打である」と色めき立ち、近畿説の勝利を確実視する声さえ上がりました。
しかし、この美しいシナリオには発掘が進むにつれて決定的な亀裂が生じることになります。まず第1に、日本国内で発見された三角縁神獣鏡の総数が500面を軽々と突破し、魏から下賜された「百枚」という数字と大きく乖離してしまった点です。第2に、後述する群馬県蟹沢古墳などで見つかった「景初四年」という、魏の歴史上に存在しない年号が刻まれた鏡の存在です(魏は景初三年の途中で正始へと改元)。実在しない元号を魏の官営工房が刻むはずがないという指摘は、近畿説推進派にとって痛烈な打撃となりました。
対する邪馬台国九州説の論陣は、三角縁神獣鏡を「4世紀以降に大和政権が作った国産鏡」と断定します。九州の甕棺墓や初期墳墓から多量に出土する後漢鏡や内行花文鏡、方格規矩鏡こそが、2世紀後半から3世紀前半の卑弥呼の時代に合致する「本物の中国鏡」であると反論。三角縁神獣鏡を巡る真偽は、そのまま古代日本最大の政治的覇権争いへと直結しているのです。