国宝・唐獅子図屏風を前にした際、誰もが抱く疑問があります。「なぜこれほどまでに巨大で、威圧感に満ちた獅子を描く必要があったのか」という点です。その答えを紐解く鍵は、戦国乱世の転換点となった天正10年(1582年)の緊迫した情勢に隠されています。
当時、織田信長の命を受けて中国攻めを進めていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、備中高松城を水攻めで包囲していました。まさにその最中に起きたのが、主君・信長が討たれた「本能寺の変」です。信長の死を悟られる前に毛利輝元軍と早急に和睦を結び、主君の仇を討つべく軍を京へ引き返す「中国大返し」を成功させなければ、秀吉自身の命運も尽きかねない極限状態でした。
豊臣秀吉と唐獅子図屏風の経緯を語る古記録や伝承によると、この電撃的な講和成立に際し、秀吉が自らの陣中に掲げていた本屏風を毛利輝元への陣中見舞い、あるいは和議成立の証として贈ったと伝えられています。毛利側の記録でも、17世紀半ばには毛利家が本屏風を確実に所有していた事実が確認されています。
百獣の王である獅子が岩間を堂々と闊歩する威容は、単なる美術鑑賞用ではありません。「我に敵対する意思なし、されど恐るるに足る力あり」という圧倒的な軍事力と覇気を相手に誇示し、心理的に屈服させる高度な政治的プロパガンダの武器として機能していたのです。狩野永徳が放った豪放な筆致は、天下を狙う秀吉の剥き出しの野心と完全に共鳴していました。