事件が発生したのは、雨上がりの爽やかな五月晴れとなった1878年(明治11年)5月14日の午前8時頃でした。内務卿として明治政府の実権を一身に握っていた大久保利通は、霞が関の自邸を出発し、馬車に乗って太政官の仮皇居(赤坂御所)へと向かっていました。
大久保利通暗殺の現場と場所は、一般に「紀尾井坂の変」という事件名から急な坂道を連想されがちですが、精査された公的記録や警視庁の初動捜査資料によると、実際の現場は紀尾井坂を登り切る手前、現在の東京都千代田区紀尾井町・清水谷にあたります。当時は樹木が生い茂り、左右に土手がある人気(ひとけ)の少ない閑静な谷間でした。
現場に潜伏していた石川県士族の島田一郎をはじめとする6名の暗殺集団は、草刈り人夫を装って馬車の接近を待ち伏せしていました。大久保を乗せた2頭立ての馬車が清水谷の緩やかな傾斜に差しかかった瞬間、刺客の2名が突如として躍り出て馬の足を刀で薙ぎ払いました。同時に、御者台に座っていた馭者・中村勇助が喉を刺されて絶命。逃げ場を失った馬車を取り囲んだ刺客に対し、大久保は車内から毅然とした態度で身を乗り出し、「無礼者!」と一喝したと伝えられています。
しかし、抜刀した刺客たちの凶刃は容赦なく大久保の身体へと向けられました。馬車から引きずり下ろされた大久保は、頭部、額、首、背中など全身16箇所にも及ぶ深手を負い、ほぼ即死の状態で絶命しました。検死記録によると、刃傷の多くは骨に達するほどの凄まじい力で斬り込まれており、暗殺者たちの執念と激しい殺意が窺えます。享年47(満年齢)。近代日本の屋台骨を支えた最高権力者のあまりにも凄惨な幕切れでした。