長年、日本国内では「米国の東洋美術史家ラングドン・ウォーナー博士が米政府に進言し、京都や奈良の文化財を空襲から守った」という美談が広く信じられてきました。戦後、ウォーナー博士を讃える記念碑が法隆寺などに建立されたことも、この言説の定着を後押ししました。
しかし、米国国立公文書館の機密解除文書を精査した現代の歴史研究において、ウォーナー博士自身が「爆撃目標の選定に関与したことはない」と生前に証言していた事実が判明しています。京都空襲がなぜ大規模化しなかったのか、その冷徹な軍事作戦上の理由は「京都が原爆投下の第一目標都市に選定されていたから」に他なりません。
1945年春、マンハッタン計画を率いるレスリー・グローブス准将を中心とする目標選定委員会は、原爆の破壊力を正確に測定・評価できる都市として、人口100万人規模であり盆地地形を持つ京都を最有力候補に挙げました。原爆の効果を極限まで検証するため、京都への通常爆撃(焼夷弾攻撃)は軍上層部によって厳しく制限されていたのです。
では、京都が原爆の標的から外された理由は何だったのでしょうか。ここで決定的な役割を果たしたのが、当時の陸軍長官ヘンリー・スティムソンでした。スティムソンはかつて京都を訪問した経験があり、その文化的・宗教的重要性を熟知していました。彼は「京都を原爆で灰燼に帰せば、戦後の日本人による反米感情が決定的なものとなり、対日占領統治や将来的な東アジア戦略(対ソ連冷戦構造)において甚大な禍根を残す」とトルーマン大統領に強く直訴したのです。軍部による猛反発を押し切り、スティムソンが強権を発動した結果、原爆投下目標は広島や長崎へと変更されることになりました。