歴史事象の本質を理解するためには、「事件の背後にあった社会構造の変化」を捉える視点が欠かせません。
当時の日本は、有力豪族がそれぞれ私有地(田荘)と私有民(部民)を抱え、合議と権力闘争を繰り返す「豪族連合国家」でした。聖徳太子(厩戸皇子)とともに仏教を受容し国政を主導した蘇我氏でしたが、蝦夷・入鹿の代になると私邸を「宮門(みかど)」と称し、自らの子を「王子」と呼ばせるなど、皇室を凌駕する専横が目立つようになりました。
一方、東アジア情勢に目を向けると、中国大陸では強大な統一帝国である「唐」が誕生し、朝鮮半島諸国への圧力を急速に強めていました。このまま国内で豪族同士が利権を争っていては、外圧に対抗できません。中大兄皇子や中臣鎌足、そして遣唐使から帰国した僧旻(みん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)らは、「天皇を中心とする強力な中央集権国家(律令国家)」へと日本を根本から作り変える必要性を痛感していました。
すなわち、乙巳の変は単なる個人的な権力争いではなく、「旧来の豪族分権体制を打ち破り、東アジア基準の中央集権体制へ舵を切るための構造改革」の第一歩だったと言えます。