現在でこそハーフのタレントや俳優は広く親しまれていますが、草刈正雄が育った1950〜60年代の日本において、混血児として生きることは過酷を極めました。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)で生まれた草刈は、父不在の母子家庭で育ちました。
母・スエ子さんは昼夜を問わず働き詰めでしたが、生活は常に困窮を極め、六畳一間のアパートで貧しい暮らしを余儀なくされました。登下校時には心ない言葉を投げかけられ、彫りの深い顔立ちと天然パーマの髪を理由にからかわれることもしばしばでした。自著や過去のロングインタビューにおいて、草刈は当時の心境をこう振り返っています。
「自分が何者なのか分からなかった。近所の子どもたちと違う自分の姿を鏡で見るのが嫌だった時期もあった。でも、母ちゃんを楽にさせたい、その一心だけで前を向いていた」
中学・高校時代から家計を助けるために配達員などのアルバイトに励んでいた草刈青年に転機が訪れたのは17歳のときでした。小倉の街を歩いていた際にスカウトされ、モデルを目指して上京。1970年、資生堂の男性向け化粧品「MG5」のコマーシャルに起用されると、その圧倒的な等身大の美貌とスタイルは瞬く間に社会現象となりました。
甘いマスクと日本人離れしたプロポーションで一躍トップスターとなった草刈は、1974年の映画『沖田総司』で映画初主演を果たし、製作者協会新人賞を受賞。さらに1980年には巨額の製作費を投じた大作映画『復活の日』に主演するなど、昭和を代表するスターへと駆け上がっていったのです。