安保闘争とは何だったのか?国会包囲の真相と現代に遺した教訓を解剖

安保闘争とは何だったのか?国会包囲の真相と現代に遺した教訓を解剖

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安保闘争が修羅場と化したのは、強行採決から約1カ月が経過した1960年6月15日のことでした。この日、国会議事堂南通用門を突破しようとした学生デモ隊と、それを阻止しようとする警視庁機動隊が激突。催涙ガスと警棒、敷石が飛び交う混乱の最中、東京大学文学部国史学科4年生の樺美智子(かんば・みちこ)さん(当時22歳)が命を落としました。

当時司法解剖を担当した東大法医学教室の記録や関係者の手記によると、死因は胸腹部圧迫による窒息死。警棒による頭部殴打の痕跡も残されており、現場の凄惨さを物語っていました。彼女の母・樺光子さんは後の手記で、「美智子は狂信的な闘士などではなく、人間の尊厳と平和を誰よりも愛する、普通の心優しい娘でした」と述懐しています。前途ある若き女性の死は日本社会に強烈な衝撃を与え、デモは追悼の色彩を帯びてさらに拡大しました。

一方、首相官邸に籠城していた岸信介はどのような心境だったのでしょうか。報道陣の問いかけに対し岸は、「国会周辺の騒乱は一部の破壊分子によるもの。銀座の繁華街はいつも通りであり、私には一般国民の『声なき声』が聞こえる」と強気の姿勢を崩しませんでした。しかし、舞台裏の実態は極限状態にありました。

事態収拾のため、アイゼンハワー大統領の秘書官ハガチーが乗った車が羽田空港でデモ隊に包囲され、米軍ヘリコプターで救出される「ハガチー事件」が発生。岸は治安維持のため自衛隊の治安出動を真剣に検討し、赤城宗徳防衛庁長官に打診しました。しかし、赤城長官は「自衛隊を同胞たる国民に向けさせることは絶対にできない」と拒絶。軍事力によるデモ鎮圧の道は断たれました。

大統領訪日の無期限延期を発表せざるを得なくなった岸は、新条約の自然成立(衆議院通過後30日)を見届け、批准書交換が行われた1960年6月23日、ついに退陣を表明。これこそが岸内閣総辞職の真相であり、「条約改定という国家目的は達成したが、世論の猛反発と治安崩壊の責任を取る」という苦渋の幕引きでした。

池田 達也
著者

池田 達也

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。