ロシア官憲から日本の関東都督府へと身柄を引き渡された安重根は、旅順で行われた裁判において一切の動揺を見せず、自身の犯行を「祖国独立のための義兵闘争」であると主張しました。
安重根が法廷で述べた犯行動機は、いわゆる「伊藤博文の15箇条の罪」として知られています。その中には、1905年の第二次日韓協約(乙巳保護条約)の締結によって大韓帝国の外交権を奪ったこと、1907年の高宗皇帝強制退位への関与、韓国の軍隊解散、東洋平和を乱したことなどが並べ立てられました。
裁判では、安重根を「テロリスト」として処断しようとする検察側と、「交戦団体の将官として国際法上の捕虜として扱うべき」と主張する弁護側の論理が激突しました。しかし、日本の司法当局は管轄権を主張し、1910年2月14日に安重根に対して死刑判決を言い渡しました。同年3月26日、旅順刑務所において死刑が執行され、安重根は30年の生涯を閉じました。