ネット上の言説や一般的な文学解説において、長年議論の的となっているのが「松尾芭蕉 辞世の句 真相」を巡る見解の相違です。一部では「芭蕉はこの句を辞世とは認めていなかった」「捏造された辞世である」といった極端な言説も見受けられますが、実際のところはどうだったのでしょうか。
一次資料を検証すると、芭蕉自身が「辞世の句」という形式的な枠組みを明確に拒否していた事実に行き当たります。弟子の向井去来や各務支考が遺した記録によると、臨終が近づいた際、弟子たちが「先生、どうか辞世をお残しください」と懇願したのに対し、芭蕉は静かにこう諭しました。
「平生すなわち辞世なり(日頃詠んでいる句のすべてが辞世である。今さら死に際して構えた句を作る必要などない)」
これが、芭蕉 辞世の句 理由を読み解く最大の鍵です。芭蕉の死生観において、俳諧とは日常の息遣いそのものであり、人生の瞬間すべてが命がけの表現でした。したがって、死の直前に特別な「別れの挨拶」を用意することは、自らの俳諧道を貶める行為に他ならなかったのです。
では、なぜ「旅に病んで」が辞世として伝わったのか。芭蕉は弟子たちの再三の願いに対し、「昨日の句(10月9日に詠んだ枯野の句)を辞世と思ってくれ」という趣旨の発言を残したとされています。つまり、意図して拵えた辞世ではなく、「病床にあっても表現者であり続けた結果、最後に残された発句」が、弟子たちによって事実上の辞世として後世に語り継がれたというのが歴史的真相です。
さらに興味深いことに、芭蕉はこの句を詠んだ翌日の10月10日にも、過去の自作「清滝や波に散りこむ青松葉」を手直しするなど、意識が混濁する直前まで言葉の彫琢を試みていました。形式的な「辞世」という言葉に収まる器ではなかったことこそが、芭蕉という表現者の凄みです。