この崇高な肯定の詩が書かれた背景には、大正から昭和初期という封建的な私とことりと鈴と 時代背景と、女性詩人を追い詰めた過酷な現実が存在します。金子みすゞ 生涯と死因の記録を辿ると、美しく澄んだ詩句とは対照的な、暗澹たる私生活の影が浮き彫りになります。
1903年(明治36年)、山口県大津郡仙崎村(現・長門市)に生まれたみすゞは、幼少期から聡明で読書を好む文学少女でした。20歳を過ぎて投稿した童謡が雑誌『童話』に一挙掲載され、選者の西條八十から「若き童謡詩人の巨星」と激賞されます。しかし、その文学的栄光はあまりにも短いものでした。
親族の意向による不本意な結婚、放蕩を繰り返す夫からの仕打ち、そして夫から感染させられた不治の病(梅毒)。追い討ちをかけるように、夫は彼女から筆を奪い、詩作を全面的に禁止しました。最愛の娘・ふさえの親権を巡る争いの中、当時の民法(旧民法)における絶対的な家父長制の壁に阻まれたみすゞは、1930年(昭和5年)3月10日、26歳の若さでカルモチン(睡眠薬)を服用し、自ら命を絶ちました。
彼女が遺書に記したのは、自らの命と引き換えに娘を実母に託したいという、母親としての血を吐くような嘆願でした。個人の自由や尊厳が徹底して圧殺された時代にあって、彼女の創作は、過酷な現実の中で自らの魂の聖域を守り抜くための最後の防壁だったといえます。