富士そばの店舗ドアを開けると、まず耳に飛び込んでくるのが有線放送から流れる哀愁漂う「演歌」です。J-POPやモダンなジャズを流す外食チェーンが大半を占める中、なぜ富士そばは頑なに演歌を流し続けるのでしょうか。
この疑問の背景には、創業者・丹道夫氏の類まれな人生観と深いこだわりが存在します。丹氏は実業家であると同時に、数多くの楽曲を手掛けた作詞家としての顔を持っています。かつて過酷な下積み時代を過ごした丹氏は、「都会の荒波に揉まれて疲弊した労働者やサラリーマンが、ふと立ち寄った店内で心の安らぎを感じられる空間を作りたい」という強い思いを抱いていました。
自著やメディアの過去インタビューにおいて、丹氏は次のような趣旨を語っています。「演歌の歌詞には、人生の哀歓や挫折、そして明日への希望が泥臭く描かれている。立ち食いそばをすする短い時間だけでも、人情の温かさに触れて元気を取り戻してほしい」。効率とスピードが最優先される現代社会において、あの哀愁あるメロディは、孤独な都市生活者の心を解きほぐす心理的アプローチとして機能し続けています。