戦後数十年にわたり、日本国内の学校教育現場や一般読者の間で「広島に原爆を落としたパイロットは、自らの引き起こした地獄絵図に耐え切れず発狂し、精神病院で非業の死を遂げた」という言説が繰り返し語られてきました。しかし、エノラゲイ乗組員の自殺の真相を公的記録や軍の除隊名簿、遺族の証言から洗っていくと、事実は全く異なる様相を呈しています。
広島原爆投下作戦に参加したエノラゲイの搭乗員は計12名。結論から言えば、正規の搭乗員12名の中に、戦後精神に異常をきたして自殺した人物は1人も存在しません。ほとんどの搭乗員は戦後に軍を退役するか民間に戻り、それぞれの職場で定年を迎え、平均寿命前後の天寿を全うしています。
とりわけ作戦の最高責任者であり、エノラゲイの機長を務めたポール・ティベッツ(Paul Tibbets)大佐は、戦後も米空軍に留まり准将にまで昇進。退役後は民間航空会社の社長を務め、2007年11月に92歳で老衰により死去しました。彼が精神病院に収容された事実もなければ、発狂した事実も一切ありません。
では、なぜ「パイロットの発狂・自殺」というセンセーショナルな噂が、あたかも事実であるかのように日本中、ひいては世界中に定着してしまったのでしょうか。その背景には、別のB29爆撃機に乗っていた「あるパイロット」の存在と、冷戦期のメディア報道が作り出した構造的な誤認がありました。