長時間の加熱を経ても牛すね肉が柔らかくならない背景には、肉を構成するタンパク質の熱変性温度が関係しています。牛肉の赤身部分を構成するミオシンは約50℃、アクチンは約66℃で凝固を始め、筋繊維内の水分を外へ激しく搾り出します。一方で、すね肉特有の硬質な結合組織であるコラーゲンが軟化し、とろけるようなゼラチンへと変質(加水分解)するには、75℃〜85℃前後の温度帯で一定時間じっくりと加熱し続ける必要があります。
多くの失敗例において散見されるのが、「早く柔らかくしたい」と鍋をグラグラと沸騰させてしまうケースです。液温が100℃に達した状態で激しく煮込むと、筋繊維は限界まで縮んで硬直化し、細胞内の旨味エキスと水分が完全に流出します。その結果、コラーゲンの一部は溶け出しても、赤身部分はパサパサとした出涸らしのような繊維質の塊へと成り下がってしまうのです。
老舗洋食店の厨房を取材すると、ベテラン料理長は口を揃えて「シチュー鍋の表面が微かに揺れる程度の超弱火」の重要性を説きます。液面の温度計が80℃台前半を指す繊細な火加減を維持して初めて、赤身の収縮を最小限に食い止めながら、頑固な筋膜をとろとろのゼラチンへと昇華させることが可能になります。