『はだしのゲン』を巡る最大の社会的騒動として記録されているのが、2012年12月に島根県松江市教育委員会が市立小中学校に対して下した「閉架措置(閲覧制限)」の要請です。学校図書館の開架棚から本を下げ、教員の許可がなければ児童・生徒が閲覧できない状態にしたこの措置は、翌年2013年8月に報道各社が一斉に報じたことで全国的な大論争へと発展しました。
松江市教委が制限に踏み切った直接のきっかけは、市民から寄せられた「旧日本軍による蛮行描写が偏っており、歴史認識に問題がある」という趣旨の陳情でした。しかし、教育委員会側が問題視した本質は、作中後半で描かれる「旧日本軍兵士による妊婦への残虐行為や首切り描写などの過激さ」であり、発達段階にある小中学生への過度な視覚的刺激を懸念した判断だったと説明されています。結果として「手続きに不備があった」として2013年8月下旬に閲覧制限は撤回されたものの、作品の持つ表現の過激さと教育的配慮のバランスに強い一石を投じました。
さらに記憶に新しいのが、広島市教育委員会による平和教育プログラム教材(通称「ひろしま平和ノート」)からの削除です。小学校3年生向けの教材に長年引用されていたゲンのエピソード(被爆前後の生活や、弟のために浪曲を歌って金を稼ぐ場面、栄養失調の母のために鯉を盗む場面など)が、2026年度の教材改訂に伴い差し替えられました。
教育委員会の公表資料によると、削除の理由は政治的主張ではなく、「現代の児童にとって浪曲や鯉を盗む行為の背景が理解しにくく、限られた授業時間内で適切な平和学習のねらいを達成することが難しいため」という指導上の実務的判断でした。しかし、被爆の実相を直感的に伝える力を削ぐのではないかという市民団体や被爆者からの反発を呼び、表現規制と時代に即した教育手法のあり方を巡る議論は現在も続いています。