世俗のすべてに敗れ去った放哉にとって、唯一外界とつながる細い糸であり、自己の魂を救済する手段が「俳句」でした。
東京帝国大学在学中から、同窓の俳人・荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)が主宰する俳誌『層雲』に投句を続けていた放哉は、五七五の定型や季語の制約に縛られない自由律俳句の旗手として頭角を現します。井泉水は放哉の破天荒な性格と生活破綻に頭を悩ませつつも、その類まれなる文学的才能を誰よりも高く評価し、生涯にわたって物心両面の支援を惜しみませんでした。
放哉の自由律俳句は、過剰な装飾や叙情を極限まで削ぎ落とし、自己の内面と対峙する「生の記録」そのものでした。言葉を贅肉のように削り、剥き出しの孤独を提示するその作風は、『層雲』の紙面で唯一無二の光を放ち始めます。