後年の豪快なイメージや裕福な家庭環境から、「兄の七光りで持ち上げられた恵まれたスター」と誤解されることがあります。しかし、実際の映画史を紐解くと、当時の映画界の旧弊と命がけで戦い続けた孤高のチャレンジャーであったことが分かります。
1960年代初頭、映画産業の斜陽化と五社協定による俳優の縛りに危機感を抱いた裕次郎は、1963年に自ら石原プロモーションを設立しました。当時としては異例の独立劇であり、大手映画会社からの激しい圧力や配給拒否に晒されながらも、莫大な私財を投じて『黒部の太陽』(1968年)の製作に踏み切ります。
資金難で自宅を抵当に入れ、一時は数億円規模の負債を抱えながらも、三船敏郎らと共に映画製作の自由を勝ち取った姿勢は、単なるアイドル俳優の枠に収まらない気骨を示しています。後年のテレビドラマへの進出や大掛かりなロケ撮影も、すべてこの泥臭い現場主義と不屈の独立心から生まれたものでした。