『八日目の蝉』はその圧倒的なリアリズムから「実在した事件のドキュメンタリーではないか」と噂されることが多々あります。結論から言えば、本作は角田光代による完全なフィクションであり、特定の事件をそのままトレースしたものではありません。
ただし、物語を形づくるディテールには、昭和から平成にかけて日本中を震撼させた複数の社会的事象の影が見え隠れします。希和子と薫が潜伏した「エンジェルホーム」は、女性信者を中心とした共同生活や外界との遮断、独特の戒律など、1990年代に社会問題化したカルト宗教や新興宗教団体、さらには「イエスの方舟事件」などを想起させるリアルな筆致で描かれています。
また、愛人の子を奪うという異常なシチュエーションや逃亡生活の心理描写は、かつて日本で実際に起きた乳幼児誘拐事件や愛憎劇の報道記録を想起させます。角田光代が丹念な取材と人間観察によって紡ぎ出した「極限状態に置かれた人間の心理」が、あたかも実話であるかのような生々しい説得力を生み出しているのです。