幕末の政局を理解するうえで不可欠な「攘夷志士」という存在を読み解く鍵は、嘉永6年(1853年)のペリー来航に端を発する対外危機にあります。それまで200年以上続いた鎖国体制が揺らぎ、江戸幕府が欧米列強の武力威嚇に屈する形で日米修好通商条約をはじめとする不平等条約に調印したことで、武士階層の内外に激しい不満と危機感が噴出しました。この激動のなかで台頭した思想運動の根幹が尊王攘夷運動のわかりやすい解説において語られる「尊王」と「攘夷」の結合です。
「尊王(尊皇)」とは日本の主権的権威である天皇を敬う思想であり、「攘夷」とは国土を侵犯する外敵を武力で打ち払う姿勢を指します。本来は別系統の儒学思想・国学思想でしたが、幕府が大老・井伊直弼の主導で孝明天皇の勅許(正式な許可)を得ずに通商条約に調印したことが、水戸学を中心とする国学者や血気盛んな若手武士たちを決定的に激怒させました。「朝廷を軽視し、異国に屈服した徳川幕府は国を治める正当性を失った」という強烈な義憤が、地方の下級武士や豪農・豪商層まで巻き込み、巨大な政治潮流へと膨れ上がっていったのです。
この尊王攘夷の火に油を注いだのが、長州藩の思想家・教育者である吉田松陰と松下村塾の思想でした。松陰は幕府に頼る改革を完全に見限り、身分にとらわれず民間の志ある者が立ち上がるべきだとする「草莽崛起(そうもうくっき)」を提唱しました。松下村塾の門弟たちに宛てた書簡の中で松陰は「諸侯頼むに足らず、公卿頼むに足らず、草莽崛起の人を待つのみ」と言い残し、安政の大獄で露と消えましたが、その殉教の精神は久坂玄瑞や高杉晋作ら弟子たちに決定的な使命感を植え付けました。
当時繰り広げられた開国派と攘夷派の対立の真相を振り返ると、それは単なる「外国好き」対「外国人嫌い」の感情論ではありませんでした。幕閣を中心とする開国派は、清国がアヘン戦争で完敗した情報網を把握しており、無謀な開戦による植民地化を避けるための現実的妥協を優先していました。一方の初期攘夷派は、武士道精神と国家の独立主権の誇りを重視し、妥協を重ねる幕府の外交姿勢を国家への反逆とみなしたのです。この埋めがたい価値観の断絶が、文久年間の暗殺テロリズム(天誅)や公武合体派への襲撃を生む引き金となりました。