岡田以蔵の最後とは?拷問と処刑の真相や辞世の句の真意を徹底解説

岡田以蔵の最後とは?拷問と処刑の真相や辞世の句の真意を徹底解説

岡田以蔵の最後とは?拷問と処刑の真相や辞世の句の真意を徹底解説について押さえておきたい 事実を分かりやすい構成で解説いたします。

暗殺者としての側面ばかりが強調されがちな以蔵ですが、同郷の坂本龍馬や幕臣・勝海舟との間には、温かみのある交流の記録も残されています。武市の手を離れた時期の以蔵は、龍馬の紹介で勝海舟の護衛(ボディガード)を務めていました。

ある夜、京都の路上で刺客に襲われた勝海舟を以蔵が一刀のもとに斬り捨てた際、勝が「人を殺すことを好んではいけない」と戒めたのに対し、以蔵は「先生、あのとき私が斬らねば、先生の首が飛んでおりましたぞ」と笑って答えたという逸話は有名です。勝海舟は後年の回顧録『氷川清話』などでも以蔵の剣技の鋭さを高く評価していました。

時期岡田以蔵の動向と出来事武市・龍馬らとの関係性歴史的評価・分析天保9年(1838年)土佐国江ノ口村にて足軽・岡田義平の長男として誕生武市半平太の道場に入門し鏡心明智流を学ぶ天性の剣才を発揮し頭角を現す文久元年〜2年(1861〜1862)土佐勤王党結成に参加。京都にて本間精一郎らを暗殺武市の命を受け「人斬り」として暗躍「天誅」の尖兵として恐れられる文久3年(1863年)勝海舟の護衛を務める。八月十八日の政変で勤王派失脚坂本龍馬の斡旋で勝に仕えるが、やがて困窮居場所を失い京都・大坂を放浪元治元年(1864年)京都で強盗容疑により捕縛、土佐へ送還される苛烈な拷問を受け、武市らの罪状を自白同志たちから「裏切り者」と蔑まれる慶応元年(1865年)閏5月11日、雁切河原にて打ち首・獄門刑(享年28)同日、武市半平太は名誉ある切腹を命じられる身分差による処遇の違いが鮮明に表れた最期
渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。