伊藤博文を撃った安重根の正体|暗殺理由と日韓評価の真相を追う

伊藤博文を撃った安重根の正体|暗殺理由と日韓評価の真相を追う

伊藤博文を撃った安重根の正体|暗殺理由と日韓評価の真相を追うの基本情報から最新動向までを一挙に解説しました。

事件後、ロシアから日本当局に引き渡された安重根は、関東都督府地方法院(現在の中国・大連市旅順)に移送され、日本の裁判権下で軍事的な法廷に立たされました。裁判で安重根は、自身を単なる私人による殺人犯ではなく「大韓義軍参謀中将」としての交戦規定に基づく捕虜であると主張。整然とした論理と毅然とした態度で伊藤の失政を糾弾し続けました。

一審で即座に下された判決は死刑。控訴を促す声もありましたが、母からの「卑しく命を乞うな」という書簡を受け取った安重根は上告を放棄しました。獄中で彼が最期まで執筆に情熱を注いだのが、未完の遺著となった『東洋平和論』です。

『東洋平和論』の中で安重根は、日中韓の3カ国が対等な立場で軍事同盟を結び、共通通貨の発行や合同平和軍を創設することで、西洋列強の帝国主義に対抗すべきだと説きました。伊藤博文を暗殺しながらも、彼は日本を無条件に憎悪していたわけではなく、初期の日本が掲げた「東洋平和」の理念を伊藤が裏切ったと批判したのです。

その人格と高潔な思想は、彼を監視していた旅順刑務所の日本人憲兵・千葉十七(ちば とおしち)をはじめとする看守たちの心をも深く動かしました。安重根は処刑直前、千葉に「為国献身軍人本分(国のために身を捧げるは軍人の本分である)」という書を贈っています。1910年3月26日、白の韓服を身にまとった安重根は、旅順刑務所の絞首台で満30歳の若さで処刑されました。

木村 陽翔
著者

木村 陽翔

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。