切腹の命が下された浅野内匠頭は、即座に陸奥一関藩主・田村右京太夫建顕の屋敷(現在の東京都港区新橋)へと身柄を預けられました。
本来、大名格の切腹であれば、屋敷内の座敷に畳を敷き詰めて丁重に執り行われるのが慣例でした。しかし、幕府からの厳命により、切腹の場所として指定されたのは「田村邸の庭先」でした。白砂の上に敷かれた筵(むしろ)と畳数枚の上で切腹させられるという扱いは、大名に対するものとしては異例の侮辱であり、まるで罪人を処刑するかのような冷遇でした。
この過酷な状況下で、浅野内匠頭は取り乱すことなく従容として死に臨んだと記録されています。切腹の直前、幕府の目付が見守る中で家臣の片岡源五右衛門らとのわずかな対面が許された際、内匠頭は次のような遺言を残したと伝えられます。
「この段、兼ねて知らせ申すべく候へども、今日その儀にあらず、不審に存じ候はん」
(こうなることを前もって知らせておきたかったが、今日その余裕もなかった。そなたたちも納得がいかないだろうが……)
自身の無念を晴らせぬまま、お家を滅ぼすことになってしまった家臣たちへの深い詫びと悔しさが、この短い言葉に凝縮されています。