この名画が誕生した18世紀初頭、フランス社会は歴史的な大転換期を迎えていました。1715年、72年間にわたり君臨した「太陽王」ルイ14世が崩御。重厚で威圧的なバロック様式と、厳格な宮廷儀礼に縛られていたヴェルサイユの貴族たちは、幼少のルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世とともにパリへと帰還します。
彼らが求めたのは、大仰な戦争画や教訓的な宗教画ではなく、貴族たちが私的な館(オテル・パルティキュリエ)のサロンで楽しむ、親密で優美な愛の戯れでした。このような時代精神のシフトを受けて花開いたのがロココ美術です。
当時、フランス王立絵画彫刻アカデミーにおいて絵画は厳格なヒエラルキーで格付けされていました。
- 歴史画・神話画・宗教画(最高位)
- 肖像画
- 風俗画(民衆の生活描写)
- 風景画
- 静物画(最下位)
1712年、若きヴァトーの類まれなる才能を認めたアカデミーは彼を会員候補に推薦しますが、彼が提出したのは歴史画でも単なる肖像画でもありませんでした。アカデミー幹部は困惑し、審査を5年間も保留した末、1717年に彼を受け入れるためだけに「雅宴画(フェート・ギャラント:Fêtes galantes)」という全く新しい画種(ジャンル)を急遽創設したのです。一人の画家の規格外の個性が、国家機関の規程そのものを書き換えさせた瞬間でした。
しかし、当のヴァトー自身は華やかなサロンの寵児でありながら、極めて内省的で孤独な男でした。生まれつき病弱で、当時不治の病であった結核に冒されていた彼は、自らの命が長くないことを痛感していました。だからこそ、彼が描く恋人たちの世界には、単なる享楽主義にとどまらない「滅びゆくものの美しさ」と、深い憂愁(メランコリー)が宿っているのです。彼は本作の完成からわずか4年後の1721年、36歳の若さでこの世を去りました。